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天国の孝ちゃんへのメールが、出版されました。

(※記事の性質上、今回は
妙な言い回しは封印しています。)

2010年7月1日・・・・・・
かけがえのない最愛の妻
孝子さんを亡くされた孝ちゃんのパパさん・・・・・

最愛の人を亡くした悲しみに押しつぶされまいと
必死に彼女が大切にしていた子供たちを
お店を守りながら
終わらない愛と悲しみ、
そして再生への希望が書き綴られている
天国の孝ちゃんへのメール
FC2のインフォメーションブログでも紹介されていたので
ご存知の方も沢山居られると思いますが
【ブログ】FC2ブロガーが
書籍『天国の孝ちゃんへのメール 別れそして嘆き』を
出版されました!

このブログが1冊の本になりました・・・・・・・
天国の孝ちゃんへのメール
最愛の妻、孝子さんの生まれ育った
大阪のとある商店街の一画を担うお店を営んで
商店街の行く末に心を砕いている
孝ちゃんのパパさんの意向を汲み取って
町の本屋さんに注文していましたが
やっと手元に届きました・・・・・・・
(ネットで購入することも出来ます。
こちらは出版元である文芸社さんのサイト
書籍詳細:天国の孝ちゃんへのメール
amazonさんでも買えます。


本屋さんから戻るや否や
袋から出すのももどかしく本を開いてみると・・・・・・

最初から

涙が止まりませんでした。

それでも
泣きながら、鼻をかみながら
とまらず読み進み・・・・・・・

一気に読んでしまいました。

孝子さんは急な病を得て
病気が発見されてから、あまり時間が沢山は
残されていなかったといいます。

読んでいて・・・・・・・
呼び覚まされる記憶がありました。

(※ここからは、
大変個人的で大変テンションの下がる
人によっては嫌な気持ちになるようなお話を
長々と書きますので
気分を下げたくない方、
病気の話、死の話を聞きたくない方は
そっとページを閉じることをお勧めします。
ごめんなさい。)


私の父も病気の発見からたった1年で亡くなりました。
肺がん、51歳でした。

10月に受けた健康診断で肺に影が見つかり
歳が明けてから手術を受け・・・・・・

もう21年も前のことになりますが
その当時はインフォームドコンセントという言葉も
まだ無くて
本人への告知も、ほとんどの方がされない時代・・・
今考えると、
おかしいことも沢山あったのですが
家族である私たちにすら
最初の手術前に行われた説明では
「肺に胞子が入り込んでカビが生えているから
これを手術で取り除くだけで心配は無いです。」と云われ・・・・・

手術の日、当日に
「1円玉ほどの大きさのガンが見つかりました。
実は、当初からガンだとは解っていましたが、
検査の先生、よく見つけてくださいました。
早期発見です。」
と云われ・・・・・・

でも、当時の常識だと、それがおかしいとも気づけませんでした。

今なら胸腔鏡で体に大きな負担をかけることなく
出来るような手術であったと思いますが
その時は、体に大きな傷をつけ肺を一葉取り去る
非常に体の負担の大きい手術でした。

いったんは元気になった父でしたが
3月に再手術
前回の手術で取り残した部分があるとのことで
無知で
病院を、医師を信じることしか出来なかった私たちは
何も疑うことなく父を病院に委ねました。

父は、再び体に大きな傷を受け・・・もう一葉
肺を切除しました。
(人間の肺は右肺は三葉、左肺は二葉に分かれています。
全部で五葉、父の肺は三葉残っていたことになります。)

家族も父も、もう大丈夫と信じて日常生活に戻りました。
緑黄色野菜を沢山摂るなど
当時の常識でのガンを撃退するつもりの対策を取りながら・・・

その年の夏は初夏から大変きびしい記録的な暑さ・・・・・・
父は二度の大手術とその暑さの中
仕事の遅れ
(自営業でした。家業は今、
当時、若干24歳だった弟が受け継いでいます。)
を取り戻そうと頑張りすぎたツケがきたのか・・・

7月・・・
父はかねてからの念願だった
元々は母方の私の祖母が建てたお墓を作り直し
父が2歳のときに亡くなったお母さんや
二十歳で亡くなったお姉さんたちの法要を
大々的に行ないました。
(母は実は嫌な予感がしていて
法要はもっと経ってからにしようと止めていたそうです。
でも、父にしてもやらねばという予感があったんでしょうね)
そして、翌日から急な高熱を出して倒れ入院・・・・・

八王子にあるお墓で法要を済ませた会食のあとで
「これから浜松に帰る。」と言うと
法要の翌日、
父は私と私の7月生まれと8月生まれの娘二人を連れて
孫の誕生日の買い物に行くつもりだったらしく
非常に残念がっていたことは
今でも私の心に棘のように残った後悔のひとつです。
結局は熱を出して倒れたのですから
行けなかったかもしれないとは思いますが・・・・・

医師の診断はガンの再発
2度目の手術からたったの3ヶ月でのことでした。

それからは医師の言われるままに
新しい抗がん剤をどんどん試して
ガンが1つ消えて一喜し
また3つ新しいのが出来て落胆し・・・・・
みっつ消えて、ふたつ増え
ふたつ消えて、いつつ増え・・・・・・

ガンの数が30個を突破・・・・・・

いつの間にか
頭にも骨にもあらゆる臓器にも
もう数えきれないくらいの転移がありました。
それでも、医師は一度も余命を口にすることは無く
私たち家族も聞くのが憚られ
最後まで治ると。
いつか奇跡が起こるのだと信じて疑いませんでした。

この年、大の巨人ファンだった父への最後のプレゼントだったのか
メイクドラマと長嶋監督が言った
巨人の大逆転優勝があり
私たちも、病室のベッドの上で
父の喜ぶ姿がとても嬉しかったのを覚えています。

11月下旬から12月にかけて医師は家に帰ったらどうかと
提案してくれ
私たちはやせ細って一人で立つのもままならなくなった父と
実家で一緒の時間をすごしました。
あらゆる民間療法、あらゆる怪しげな治療法を調べ
枇杷の葉を温めたコンニャクと共に患部に当て
ガンが消えたという触れ込みのある
黒砂糖のような香りのする茶色い飲み物を・・・・・・
そしてアミグダリンがガンに特効薬になると信じ
枇杷の実のお酒を飲ませて日々を過ごしていました。

まだ2歳くらいだった次女は
寝ている父の上を嬉しそうに這い回り
もう、少しの衝撃でも背骨が折れる状態だった父を心配して
やめさせようとすると
「いいよ、いいよ、可愛いから。」
と言ってくれた父でした。

12月10日の私の誕生日は実家で
父と一緒に家族揃って、みんなで迎えました。
そのとき・・・・・・・
録画はしていたのに、なぜか写真は撮りませんでした。
今では、なぜ撮らなかったのかと後悔していますが
その時は、父が居なくなってしまうことを認めるようで
やせ細った父と一緒に並んで写真を撮るのが嫌だったのだと思います。

その後、私と次女を実家に残し旦那と長女は家に戻ったのですが
小学校に通っている長女の
学校でちょっとした事件があったこともあり
私は誕生会の後、いったん家に戻りました。
その間に、父は立ち上がれなくなり
救急車で病院に運ばれ・・・・・・・

私が急を聞いて実家に戻り病院に行ったときには
ガンが頭に転移していたこともあり
一気に病状が進み
もう、話が出来る状態ではありませんでした。

たった数日前まで
親子の会話が出来ていたのに
「いいよ、いいよ、可愛いから。」と言ってくれていた父は
もう、痛みに腕をしきりに動かしながら
うめく事しか出来なくなっていました。

医師は言いました。
「すみませんでした。私の読みが甘かった。
もう少し早くおうちにおかえしするべきでした。」と・・・・・


誰にでも優しくて
誰からも好かれて
大きくてあったかくて大好きだったお父さんは
小さい頃から大好きで大好きすぎて
おとうさんの死に遭うくらいなら
自分の方が先に死にたいと
親不孝であまりにも愚かしい願いを抱いていたくらいの
最愛の父は
暮れも押し迫った12月28日午前2時
帰らぬ人になりました。

父が亡くなる前日
12月27日は母が家に帰っていて
夜まで、まだ若かった私と妹の二人が父の部屋にいました。

日が暮れていくのに病室の電気をつけることも忘れて
暗い病室の窓から
血の様に真っ赤に染まった夕焼けを見ながら
妹が買ってきてくれたメロンパンを妹と二人で食べました。
あの夕焼けの色、
生きている父の横での最後の晩餐を
私は生涯忘れることはないでしょう・・・・・

その夜・・・今日は落ち着いているから
家に帰ってお休み下さいといわれ
母も私たちも家に帰ってしまっていて・・・・・

夜中、私は験を担ぐかのように絶対に出さなければ。と
年賀状を書いていました。
あと、20枚・・・・・・・
そこに病院から電話がかかってきて
駆けつけたときには
心臓マッサージでかろうじて生きている。という体面を保っていたような状態。
私達が着いてからすぐに
蘇生措置が解かれ
「午前2時ちょうど、ご臨終です。」と云われました。
私はもう動かなくなった父の手を握って
「帰ってきて!!おとうさん!!」と叫んでしました。

でも、
とうに奇跡を信じる心を保つことが出来なくなっていた私は
そう叫びながらも
もし、おとうさんの息が戻ったとしても
また、苦しみながら空をつかみうめくしか出来ない父を
呼び戻せたとしても・・・・・・
もう、元気だったおとうさんに戻ることが無いことも知っていました。

父が亡くなったあとの処置をする間
廊下に出され・・・・・・
私は立っている事も出来ず壁にもたれて座り込んで
呆然としながら
浅く速い呼吸をしていることしか出来ませんでした。
後にも先にも
あれほどの絶望に支配された時間は無かった・・・・

医師は最後の最後まで余命を口にすることは無く
治すことが出来なかったことを詫びてくれ
病院から出るとき
葬儀社の車が鳴らす
長い警笛を聞きながら深々と頭を下げてくれていました。

結局、必死に書き上げた50枚あまりの年賀状も
書き終えられなかった20枚も
出すことは叶いませんでした・・・・・


父も母も複雑な生い立ちを持っていた所為か
お互いがお互いを
まるで自分の対のピースの様に
それはそれは愛し合っていました。
父が元気な頃、娘である私は呆れていたくらい。
それこそ、御互いが唯一無二の存在でした。

父は母を母と作った家族をこよなく愛し
ただただ愛をくれる人でした。

母は実を言うと我侭な性質で
父や私たちを振り回していましたが
父は、とにかくそんな母が好きで好きで・・・・・・
可愛くて大好きな母を自由にさせて、
いつも笑顔で居ました。

そんな風に家族を、母を慈しんでいた父が亡くなったあとの
母の荒れ様は酷いもので
何度も「子供が死ぬほうがマシ」みたいなことを云われたり
家にあるありったけの薬をのんで暴れたり・・・

あるときなどは、酔っていきなり
「そこに座りなさい!!
あんたは、おとうさんが亡くなった後
私たちを置いて楽しい我が家に
正月をやりに帰った!!」と怒鳴られ
身重の体で(末っ子K氏がお腹に居ました。)
雪の降る中飛び出していって、みんなから探されたこともありました。

父は暮れの28日に亡くなったのですが
お通夜、御葬式を済ませ
歳が変わってから4日くらいまで実家に居て
その後、小学生の娘も居たことから
後ろ髪を引かれる思いで泣く泣く帰ると
浜松の家では(同居です)義姉も来ていて
普通に団欒していて・・・・・
「おかえりー!大変だったねえ~」と
言ってはくれたけど

暖かい部屋のコタツにみんなが入って
顔だけ向けて労ってくれた人たちを見たときに
ああ、この人たちには
おとうさんが居るんだ。
私は、やっぱりこの家でひとりぼっちなのだ。
と言い知れぬ孤独を、悲しみを抱いていたと云うのに
彼女は、そんなことを想像もせず
「楽しい正月をやりに帰った」などと言う・・・・・・
たまらず雪の降る夜の外に走り出て
このまま私が流産でもしたら彼女も少しは私のことを
考えてくれるだろうかなどと、とんでもないことを
思ったり・・・・・・(ごめんね、K氏・・・)

今考えれば、もともと我侭だった為に目立ちませんでしたが
母はおかしくなっていたのでしょうね。

母が立ち直ったと言えるようになったのは
父の死から10年も経っていたと思います。

ただ・・・・・
父が病魔と闘っていた
あの1年・・・・・・・・・
私たちは不幸のどん底に居ました。
そして、
自分が先に逝ってしまいたいと願うほど大好きな父の死で
私たちの不幸は頂点に達しました。


頂点に達した不幸は父が生き返らない限り
もう逆転はしません・・・・・・
実際、母が立ち直るまでの間
不幸は持続していたと思います。

でもね
生きている人間は
そのまま、ずっと不幸の頂点に居るわけにいかないのです。
もちろん、父を忘れることは出来ませんし
今でも大好きですし20年以上経った今でも
「おとうさんが生きていてくれたらな。」と
何度も、何度も思います。

だけど、私たち家族を大好きで
いつでも大きな大きな愛を惜しみなく与えてくれていた
おとうさんが望んでいることは
いつまでも父の死を悼んで不幸の頂点に居ることではないと思います。
だから、私たちは幸せになる努力をします。
おとうさんの分まで
おとうさんが出来なかったことをして
おとうさんが生きることの出来なかった51歳より先の人生を
楽しみたいと思っています。

そして・・・・・・・・
私の旦那も、実は数年前に命に関わる大病をしました。
父の病死の経験がある私は
旦那の病気が治って
生きてくれていさえしたら
もう、何も要らない。
くだらないことで喧嘩したりしない。
何があっても笑ってられる!!
生きて隣に居てくれるだけで充分すぎるほど幸せなのだから・・・・・

と思ってたんですけどね・・・・・・・
やっぱり、腹も立てちゃうし喧嘩にもなっちゃうし・・・・・・
ダメですね・・・・・・
ちょっと反省・・・・・・・

孝ちゃんのパパさんや母の様に
愛する連れ合いに今生では夢の中でしか逢う事が叶わなくなった方に
あわせる顔が無いです・・・・・・

出来るだけ、あの時の気持ちを忘れないように頑張ります!!


天国の孝ちゃんへのメールは、
ずっと続いていき・・・・・・
そしてブログの中に
孝子さんは確かに生きています。

本も、また続いていくそうです。

私は孝ちゃんのパパさんと
孝ちゃんのパパさんを通じて知り合った素敵な孝子さんと
これからも仲良くして頂きたいと思っています(^^*)

ありがとう!!!孝ちゃんのパパさん!!
孝子さん!!!!!
知りあえた、このご縁に!!
どうも
ありがとう!!!!!!!!

これからも、よろしくお願いしますm(^v^*)m





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